昭和四十三年六月八日 朝の御理解


立教神伝 「この幣切り境に肥灰(農業)さしとめるから、その分に承知してくれ。外家業はいたし、農業へ出、人が願い出、呼びに来、もどり。願いがすみ、また農へ出、またも呼びに来。農業する間もなし、来た人も待ち、両方のさしつかえに相成り。なんと家業やめてくれんか。其方四十二歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談もなり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。此方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子もたち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」

 今日も、立教神伝の内容をもう少し深く分からして頂きたいと思う。
 立教神伝の一番最後のところに、「此方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子もたち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」と、立教神伝の一番最後のところですね。
 どうして、この立教神伝が教祖の上に下らなければならなかったかと言ったような事を、ここ一両日頂いて参りました。ただ、その内容がよく分からなければ行けません。ここのところを、「此の方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が」。ここで一遍切らないと意味が大変違ってくる。ここんところを続けて申しますと、大変意味が違ってくる。世の中の神信心しておる氏子がたくさんおるけれども、その人たちが難儀をしておるという風に聞こえるですけれど、ここはね、教祖様を指しておられる言葉ですね。「此の方のように」というておられる。言うならば、「あなたのように」とこういうのである。あんたのようによい信心をしておる人でないとね、取次ぎ助ける、そういう御用が出来んのだというのだ。あなたのように。例えば、世間には実意丁寧な人は沢山ある。又は、神信心しておる人も沢山ある。けれども、実意丁寧だけでもいけない、ただ、神様に一生懸命、熱心に信心しておるというだけでもいけないのだ。そこには、あなたが一番打ってつけなんだ。実意丁寧であると同時に神信心を深くするあなたのような氏子が、あなたのような人間でなければ、世間になんぼうもある難儀な氏子を取次ぎ助けることは出来ないのだと、言う意味なんです。ここは。ここは、大変間違いやすいところですね。
 ですから、取次ぎ助けられる私どもも、ここに実意丁寧神信心が足らわなければいけないことを、ここでは感じられますね。
 教祖の神様が、言うならば生き手本である。ですから、その教祖の神様のような生き方、いわゆる実意丁寧神信心に、神習わせて頂かなければいけない。信心が手厚いだけではいけん。やはり実意丁寧でなからなければいけない。これなんか、最後のところがわからなきゃいけないですね。いわゆる、「末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」という、その繁盛いたしと言うことになってこない。それからもう一つここで大事なことはね。「氏子あっての神、神あっての氏子」と、こう言うておられる。ここのところも私共、今迄は今日私が説明しようと思うような頂き方をしていなかったんですね。ここにはこう言うて有る。神様もそう言うておられる。「氏子あっての神、神あっての氏子」と、氏子のほうを先に言うておられる。それで、私どもとしては神様あっての私共。所謂神様あっての氏子、氏子あっての神と。ここんところを神様の言葉を持ってすれば、神様がああ仰っておられるから、神あっての氏子と仰っておられるけれども、氏子の立場になったら、ここは、「いいえ私共は神様あっての私共です」といわなけりゃいけないという風に頂いてきたんですね。
 ここんところで、これをこのまま頂くと、神様のほうが、何か遠慮しとってござる感じですね。氏子あっての神。「お前たちがおってくれなければ」と言うておられるような感じですね。そこで、ここを実意丁寧に信心させて頂く私たちは、ここんところを反対に頂かなければいけない。「いいえ、あなたあっての私たちなんですよ」と。神様あっての私たちなんですよと言う風に頂かなければならんところを、これも間違いじゃないですよね。これも本当です。けれども、今日はね。そういう意味じゃなくて、「氏子あっての神神あっての氏子」というのはね。氏子あっての神神あっての氏子。神が二つ続いてますね。氏子あっての神神あっての氏子。神様が二つ続いておる。これはね、氏子も神も同じだという意味なんです。
 ここんところが今迄、気がつかなかった、又は、こう言う説明がされてなかったようですね。今迄はここのところを、氏子あっての神と言うておられるけれども、いいえ、神様あっての私どもだというような頂き方でなければならんという風に、ここは頂いてきたんですけども、ここんところのね、氏子あっての神神あっての氏子と。と言うのは、同じという事。神も氏子も同じだ。
 そこで、「神あっての氏子。繁盛致し」ということになる。「末々親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く」道というのが開けてくるんだと、ね。そこで、ここんところを御理解でこう言う風に説明しておられます。
 御理解七十節「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ」と仰っておられる。人間は万物の霊長だ。人間は万物の霊長であるのですから、万物等しく神様と同じということになるんですね。その長(おさ)、長(ちょう)であるのが人間だ。言うなら、生きとし活けるもの。動物であろうが、植物であろうが天地の親神様と同じなんだ。けれども、植物には、また、他の人間以外の動物には、そこんところを言うて聞かせても分からん。
 まぁ、この辺のところに、一切を神様の姿と見るということだから、実感的に本当な事だということが分かるですね。一切を神様の姿と見る。人間だけじゃないのです。天地の親神様の目から見れば、もう一切が、言うなら神様がお生かしを下さっておるというのですね。神様の命と繋がっておるのです、実際は。
 そこで、日頃頂いておる、お道の信心させて頂いておるものの見方、考え方というのが神の声と聞き、神の姿と見るというのですね。自分の周囲のすべてのものを神の姿と見る。又は、神の声と聞くということがここのところに、実感的に感じられます訳ですね。
 但し、人間はその、万物の長である。万物の長である。人間は、自分たちの我情我欲というものを取れば、本当は、いよいよ神様と、所謂本質が同じですから、神の本質と人間の本質というものが同じなんだ。けれども、人間の心には我情我欲がついておるということが、違うように見えるのです。それで、信心は我情我欲を取っていくということになるのですね。実意丁寧な信心をさせて頂いて、我情我欲を取っていくところに、わが身は神徳の中に生かされてある。もう同じ、神と。所謂教祖の神様のことを天地金乃神と同根なりと仰ったんですね。そういうことが言える。同じ。同根である。私共は天地と同根である。それを我情我欲によって隔離されておるようなものである。
 そこで、私共は万物を見て道理が分かるということに、人間本来の値打ちがある。他の、動物やら植物では、ここのところが分からない、道理を説かれても。けれども、ここに、他の動物や植物を見習わなきゃならないところがあるのは、神ながらな生き方をしておることですね、動物とか植物というのは。人間よりむしろ。それは、道理は知らなくても。ですから、私共は、そういう動植物を、ある場合師匠としなければならないようなことにいつも直面するんです。
 所謂、我無力と言ったようなものをですね、もう身に付けておるです。植物やら、他の動物やらはね、「俺が」なんて我がないです。所謂神ながらに生きておる。だから、やはり神ながらに生かされておる。これは、人間よりもましな生き方をしておる。
 いうなら、神様のお働き、神様の愛情をね、十二分に吸収している、頂いておる。十二分に神様の御守護を受けておるけれども、その御守護を受けておるということを知らないだけのこと。
 人間も、ここのところの御守護を受けておるということを知らない人間がどれだけおるか分からない。信心して初めて分かること。天地の御恩恵に浴しなければ人間の幸せはありえないが、それこそ一寸先も分からないのであり、一分一厘でも、この神様の働きを頂かなければ立ち行かないということを知らない人たちがたくさんある。信心して初めてそこが分かってくる。そこで、所謂神恩と、神様のご恩徳というものが分かって、ご恩に報いる生活をさせて頂こうというところに本当の信心を頂いて行くものの姿がある。そこから、道理に合うて行く信心ができていくのである。それを神の心を心としてと言うことになる。
 こういうところも神と同質、同じであることが分かるでしょうが。神の心を心として、神様の心を心として生活をしていくということがです、ところが、その神の心を心としての生活ができないのは我情我欲があって、我情我欲の生活がくり広げられるのですけれども、信心させて頂いて、そこんところのお詫びをさせてもろうたり、そこんところを改まらして頂いたりして、所謂道理に合う信心生活ができるようになる。
 そこから真実、「末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く。末々繁盛致し」ということになるのです。
 「氏子あっての神神あっての氏子、繁盛致し末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く」と、このあいよかけよで立ち行くところの人間生活というものがお道の信心の一番有難いところじゃないかと思う。
 私はおかげ頂いておるというのじゃなくて、あいよかけよでと言うこと。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよと。先ず、だから、万物の霊長としての自覚に立つ。そして、果たして自分は万物の霊長としての値打ちがどこにあるか、と言うことを自分で考えてみて、これは、自分は普通の動植物以下だと。それを人間の言葉で言うと「犬猫にも劣り果てた」とこう言う風に申します。
 そういうような自分というものを発見し、そこから改まりの生活ができ、次第に万物の霊長としての値打ちを発揮していくことができる。所謂、お徳を受けていくことができる。そこに神様と同質のような働きまでも現していくことができる。
 まぁ、これは大変、理論になりました。けれども、ここのところを、理論に立ったところから信心が始められないといけない。
 そこで、ここで分からして頂かなければいけないこと。そういう信心を目指し、そういう信心をもって、お互いが幸せになろう、おかげを頂いていこうという願いに立つのに、一番邪魔なものはどういうようなことか。いうなら、せっかくそういう信心の道を辿らして頂いておるものがまた元の木阿弥に転落するのはどういうようなことか。いうなら折角ここまで頂いてきておるおかげをまた、元に戻してしまうようなおかげを落とすのはどういう訳か。いつも堂々回りばかりしておるのはどういう訳か。
 これはね。言わば、氏子あっての神神あっての氏子であるという、神様の本質と同じであるということを忘れる。もう、神様あって私だということを忘れる。神様のおかげを頂かなければ立ち行かないと言うことを忘れる。それを慢心という。
 今日の、いろいろ理屈を申しました。ただ、皆さん方に実感として分かって頂きたいのはここのところだけなんです。私どもが日々お取次ぎを頂いておかげを蒙っている。その蒙っていくおかげをまた向こうに戻してしまうような、堂々回りにいつも同じようなところばっかり通っているようなことになるのはどういう訳か。それは、神あっての氏子ということを忘れてしまうからなんです。
 それを教祖は、またのご理解に「慢心は大怪我の元なり」と仰っておられる。これは御理解ではなかったですね。御神訓でしたね。慢心は大怪我の元。
 今日はここのところを分かって頂きたいと思う。
 私どもがただ今申しましたような道理に立った、理路整然とした信心に立脚した、そこを土台とした、こんなにも間違いのない信心ということを分からして頂いて、その信心をいよいよ進めていって、何が分かるかと言うと、あなたあっての私。所謂神様あっての氏子だということが分かってくる。そこから神恩報謝の生活が出来てくるのだけれども、ここのところが、神恩報謝の生活がだんだんなくなってくる、薄うなってくる。おかげを受けるとともに。慢心が出てくる。そして、私が働いたから、私がおるから、もうすでに神様あってと言うことを忘れている。
 私が一生懸命頑張りよるから。私が働いたから。ここのところに、神様あって私というところを忘れている。そういう心が慢心。だからそれが、大怪我の元にならんにしても、それがいつも小さい怪我になって現れてくる。いつも心が痛い。いつも心配が絶えない。いつも難儀は、堂々回りで同じ事である。またお取次ぎを頂いて、またお願いをする。「どうぞ、どうぞ」と言うてお願いをする。さあおかげを頂いた。おかげを頂いたらもう、私が一生懸命なったから。もう既に、神あっての氏子であることを忘れておる。霊長としての本質から悖っておる。
 だから、いかに信心させて頂くものがですね、あなたのおかげで、あなたがあってから、私。あなたのおかげでなからなければ立ち行きはしない。その心を忘れんで信心さしてもらう。そこに、いつも生き生きとした信心の感動というものがある。喜びがある。ね、瑞々しい喜びがある。
 ところが、ここが人間。言葉で言えばそれだけなんだけれども、確かにおかげを頂いて有難いと思うて、瑞々しい喜びがあったんだけれども、いつの間にかそれが薄うくなってくる。そして、まぁいうならば、それが激しいとヒステリ-になってくる。こりゃ女だけじゃない。ヒステリ-ということは、いうなら晴れ曇りが激しいということである。午前中は有難かったけれども、午後からは一つも有難くなくなってくる。これはみんな、男も女も同じ。そこに私どもは難儀を感じますですね。めぐりを感じます。
 有難くなからなければならない。実際こんなおかげを頂いて有難いと心から湧いてこなければならないのにもかかわらず、思うて見ても、思うて見ても有難く慣れない。これはね。これは、実をいうたら有難いことなんです。いつも有難いなんて、あれはしらごつ。まぁ、私ども凡夫では。あの、香港フラワ-のようなものです、花で言うなら。いつも、色も変らなきゃ、いつも咲いたぎりです。ほんにおかげを頂いて有難い、有難いと言うのは、ありゃしらごつです。
 神様の本質と同じではあるけれども、実際言うたら神様御自身もやっぱり、ヒステリ-の大将のようなもんですよね。なぜって、降ったり照ったりするじゃない。天地自体も。だから、私共の心の上にも降りがあり照りがあり曇があるのである。だから、それも有難い。問題はね、そういう心の中にです。いうなら腹立たしい、寂しい、けれどもですね。そこんところを実意丁寧に頂いていかなければいけない。腹が立てば立つほどに、心が寂しいなら寂しいほどに、心が有頂天に調子に乗りすぎる心があるならば、ある程に私は神様に向かわなきゃいかん。腹が立ちます。心がどうにもこうにも真っ黒なって仕方がありません。神様心が暗うなってしまいます。心が苛々いたします。そこから、心は苛々しておるけれども、腹は立つけれども、腹が立ったたんびに、心が暗くなったたんびにいよいよ切実に神様に向かっていくことができる。
 ここが万物の霊長でなからなきゃ出来ることじゃない。人間でなからなきゃ出来ることじゃない。 それを、腹が立ったら立ったで、神様の方へ持っていかずに反対の方へ持っていくところに、いよいよ乱れに乱れ、間違いに間違ごうて来ることになってくるのですよ。
 ですからね。私共の信心が本当か本当でないかということを分かるのには、私共はやっぱり降ったり照ったり、心の中も曇ったり照ったりすることがあることが実際本物なんです。けれどもいよいよそれを本なもの足らしめるために、私共信心させて頂いておるものが、それを自分の周囲に持っていかずに神様へ持っていって、寂しいなら寂しいだけ、腹が立つなら立つほど、その勢いをもって神様に向かっていく。いわゆる心配する心で信心せよということになる。腹の立つ心で信心せよ、神様へ。ですから、腹が立ちます。心が苛々します。けれどもね、そうしたから有難いものが頂ける。香港フラワ-ではないのです。そこに咲いておる生きた花なんです。ですからその花は開きもすりゃ、蕾のときもある。またはそれが咲いて散ることもある。けれども次ぎには、次の蕾があるのです。
 これが、人間の実態じゃないかとこう思うんです。但し信心させて頂くものはそこんところを教祖の神様が実意丁寧神信心と仰る、そこのところを実意にしていかなければならない。そこのところを実意丁寧に頂いていかなければならない。そして、それを神様へ。いわゆる心配する心で信心さして頂くところに、心配ではありますけれども、こういう信心を頂いておることが有難い。こういう腹の立つような問題があるけれども、それを神様に向けていきよりましたらそれが神愛であることが分かりましたというところに、今度は、今までかつてなかったような有難さが頂けるのです。いわゆる新な有難さが頂けるのです。
 「実意丁寧神信心いたしおる氏子が」というのは、これはね、私共を指したのではなくて、教祖の神様を指しておられるのですよ。ここんところを間違えないようにね。「実意丁寧神信心いたしおる氏子が」と言うのは教祖様を指している。だから、あんたのように実意丁寧神信心しておる氏子がと言うこと。世間には実意な人がある、丁寧な人もある。神信心も熱心にしておる人があるけれども、実意丁寧神信心が足ろうておるという人が少ない。本当言うたらなかった。そこに教祖の神様を発見された、天地の親神様が。そして、世間になんぼうも難儀な氏子があるからそれを取次ぎ助けてやってくれとこういうことである。だから、取次ぎ助けられる私どもとしては、その教祖の神様の実意丁寧神信心を神習わせていただかなければならない。そこで、実意丁寧とは降ったり曇ったりしますけれども、照ったりしますけれども、そこのところを大事に大事にいただいていくということが実意丁寧である。しかも神様へ心配する心で、腹の立つ心で神様へ持っていくことを信心するという。心配する心で信心せよとこういう風に教祖は説きますね。氏子あっての神神あっての氏子と仰るのは、神と本質は同じであるということをここには説いておられる。
 「氏子あっての神神あっての氏子、繁盛致し末々親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く」ここのところは、いわゆる、さっき申しましたように万物の霊長であるとの自覚にたっての信心。そこから、末々繁盛する。親にかかり子は親にかかり、あいよかけよの立ち行きというものはそこから頂けてくるようになるのだと、立教神伝には説いてあるのでございます。
 立教神伝がお道の信心にとってどんなに大事なものかということは分かります。ですから、そこには神様の願いというか、神様の切々たる悲しいまでの願いがこれに溢れておる。最後のところを頂きましても、神様の切々たる願いが感じられる。その願いを願いとして、私どもが神の思いを思いとして、神の心を心として生活が出来れるようなおかげを頂かせてもらうところに、なるほど神様と私共は同じだと言うことが体験されるようなおかげになってくる。
 そして、おかげをだんだん頂いていっても、神あっての氏子ということを忘れずに、どのようなおかげを頂いても、神様あっての私であるというところを忘れんでおると慢心がでらない。勿論、怪我があることもない。いよいよおかげがおかげに繋がっていく、所謂末々繁盛するというおかげに繋がっていく訳なんです。
 そこで、ここんところを私共が、ややもすると疎かになったり、薄くなったりして、私が頑張ったからこうなったといったような内容ができてくるから又、元の木阿弥に返って堂々回りを続けて行かなければならん。
 慢心は大怪我の元である。大怪我にならないに致しましても、それがいつも堂々回り、所謂本当のおかげを崩してしまっておるようにおもうのです。
 そこんところを、今日の御教えを一日の生活の上に現していこうというなら、ここんところを一つ現し、神様あっての私だというところを頂いていく限り慢心は起こらない。
 ここんところに重点をおいて一日があらなければならないと思うですね、どうぞ。